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2023.04.24潜在意識

謙遜もいき過ぎたら嫌味、遠慮もいき過ぎたら拒絶となる

目次

自分のためよりも「誰かのため」の方ががんばれる?


日本潜在意識コミュニケーション育成協会代表森口です。

こうなりたいという願望や、
もっとこうしないと!という目標、

そういったものがあると私たちは、

いろんな方法でもって、
その願望や目標に近づくため努力します。

成し遂げるためにがんばる、

我が身を振り返り改善策を立て、
できる限り手を尽くす。

自分の事ならさほど、
そこまで本気にはなれなくても、

「誰かのため」となれば、
みょうに力が湧いてくる、がんばれる、

そんな方もけっこう多いのではないでしょうか。

「自分自身」には厳しく当たる私たち


そうして努力を重ね試行錯誤するとき、
私たちは昨日の自分よりも成長しています。

そうは見えなくても、
そうは思えなくても、

ほんの少しであったとしても、
私たちは成長し改善し視野が広がっているんです。

でもそうは言っても、
とてもじゃないけどそうは思えない時、

私の努力よりも、
あの人の努力の方がすごい、

私のやってることなんてもう、
あの人に比べたら取るに足らない。

そう思ってしまう時ってどうしたって、
自分が成長しているなんてとても思えないので、

まだまだ努力が足らない、
もっとやらなきゃいけないとさらに自分を奮い立たせ、

弱音を吐く自分をみつけたらば、
ビシビシ厳しく接してしまう、攻撃してしまう。

けっこうやってしまってたりするんです、
そういうことってナチュラルに。

ストイックすぎると自己卑下が強くなる


大きな成果結果ではなかったとしても、

そうして日々目標に向けて、
邁進しているわけですから、

今日明日というわけではなかったとしても、
いつの日かなんらかの成果結果は出てきます。

自分が思う成果結果ではなかったとしても、

他者が見た時に感じる「努力」や「成果」は、
なにかしらあるでしょうから、

声をかけてくることもあるでしょう。

すごいね、素晴らしいね、
がんばってるね、よかったね と。

そこで、

あっそうか!私はまだそんなに、
成果も結果も変化も実感してはいないけど、

他の人から見たら私は、
以前より成果を出せるくらいに成長しているんだ、

変化しているんだ!!そううけとめて

自分を認め受け入れてあげることができたらば、

自己肯定感も、
自己効力感も養われますので、

※自己効力感…自分はできる、私ならできるという考えおもい

自信がつく、
自分を信じることができるようになります。

ところが、

自分の思う目標、願望、
それが高すぎたり、ストイックすぎたり、

こうでなきゃいけないという、
その「的」が狭すぎたりピンポイント過ぎたりすると、

他の誰かがいくら称賛、承認してくれたとしても、
華麗にスルーしたり、

むしろ、
疑い怪しみ反発さえしてしまうので、

自分はまだまだだという、
そういうおもいをさらに強くしてしまいがち。

誰の言葉も聞き入れないとなれば、
どんどん孤立してしまい、

もはや何が目的だったのかすら、
わからなくなって自分を見失ったり、

自己卑下が強くもなりやすいんです。

あまりに「過ぎる」と起こる弊害


それくらいで終わるならまだいいんですけど、

当然そういう状態にある時には、
心がアンバランスな状態になります。

偏り過ぎてしまってますからね。

そういう時ほどこの世のしくみとして、
調整・修正力が働きますので、

そのアンバランスさを気づかせるような、
目の当たりにさせられるような出来事が徐々に起こってきます。

1人ストイックに、
目標に向けて頑張るのもいいんですが、

どこかでそのひずみ、歪みが、
他の誰かにも影響してしまうんでしょう。

せっせと努力はするけど、
いつまでたっても自分を認められない、

もっと!を自分に要求するとなれば、

知らぬ間に他者にも、

がんばることこそ良し!という考えを、
おしつけてしまいかねませんから。

それが原因となって人間関係でトラブルが起こり、
アンバランスになった自分に気づかされる、

そういうこともありますし、

身近に自分と同じような人が出没する、
そういう方法でもって気づかされる、

そんな出来事だって起こりやすくなります。

たとえば、

努力を重ねる人がいたとして、
あなたがいくらその人を褒めたり認めたとしても、

みょうに突き放されるとか、
なぜか噛みつかれるとか、

なぜか知らぬ間に、
自分が悪者にされる出来事が起こる とかですね。

まとめ


不思議なように聞えるかもしれませんが、

私たちは自分の姿や言動というものが、
わかっているようでわかってません。

なので、

自分ではない誰かの姿、言動で認識する方が、
意識を向けやすくなりますし、

関心だって持ちやすい。

だからこそ、

身近に自分に似た人が出現して教えられるんです。
それは良くも悪くも。

あなたってこういうことをしてるんだよじつは と。

とっても感じの良い人が出現することもあるだろうし、
とっても感じの悪い人が出現することもある。

たとえば、

自分は謙遜のつもり、
自分は遠慮、配慮のつもり、

でもそれが「あまりに過ぎる」人が出現したとしたら?

あなたは謙遜のつもり、
あなたは遠慮、配慮のつもりでしょうけど、

こうして人の姿でみたらわかるでしょ?と。

謙遜もしすぎたら嫌味だし、
遠慮だってやり過ぎたら拒絶なんだよと。

話し合いたい、コミュニケーションをとりたい。

それも方法を間違えば、
表現がすぎてしまえば、

ただのクレーム、クレーマーなんだよと。

そんなつもりはない自分と、
そうとしか見えない他人。

そういう現実、出来事が身近で起こった時ほど、
私たちは気づきを促されているのかもしれません。

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