2021.07.12潜在意識
どうして努力が報われないの?
目次
- ○ 報われない不満感はいったいどこから?
- ・こんなにがんばったのに!が生む不満
- ・やったからこそ求める「みかえり」
- ○ 努力は報われると信じている私たち
- ・その努力は適切?適量?
- ・やりすぎているからこそ見返りを求めすぎる
- ○ まとめ
報われない不満感はいったいどこから?
日本潜在意識コミュニケーション育成協会の森口です。
自分なりに望むものがあるんだけど、
なかなかそれが自分の思うようなかたちにならない。
部分的にはかたちになる、
実現してはいるんだろうけど、
全体的にみたらばどうも…満足とは言い難い。
むしろなんで自分の思い通りになってくれないんだろ?
そういうおもいのほうを強く感じてしまう。
そういう時って、
フラストレーションというか、
なんだかもやっとする みたいな、
言葉には表現しがたい心の動きとなるので、
スッキリとは言い難い感情が、
渦巻くなんてことも多いですよね。
こんなにがんばったのに!が生む不満
思うように実現しない、
望むようなかたちになってくれない、
そういう時っておおよその場合、
その不満の後に続く「言葉」があると思うんです。
それは、
私はこんなに○○したのに、
または、
私はこんなに○○やってあげたのに、
そのような言葉。
ようは、
自分のやったことに対する「みかえり」、
放ったエネルギーとは見合わない現実への不満、
そういうところが、
やけにクローズUPされているときではないでしょうか。
やったからこそ求める「みかえり」
たとえばこれが、
自分は何もすることなく、
何の労力をかけることなく、
なかなか自分の思い通りにならない、
誰も私をわかってくれないとなると、
まだ自分の気持ちの「落としどころ」があるのでね、
やってないから仕方ないと、
そう思もうと思えばまだ思えますから、
不満は不満だけど、
まだのめる。まだ許せる。
でも自分自身が何らかのアクションをとっていて、
それにもかかわらず望むようなものにならないとなると、
すでに「放っている」ものがありますからね。
それに見合うものがかえってこないとなると、
当然心中穏やかではいられないんでしょう。
損をした とは言わなくとも、
自分だけがやり損、貧乏くじ、
はずれをひいちゃったような、
そんながっくり感を味わうことになるからかもしれません。
努力は報われると信じている私たち
でもそれもとても健全な感情ですよね。
やったことが戻ってくる、
努力は報われる、
私たちは幼少期からそう教わってきてますから。
もしそんな体験はないとおっしゃるなら、
いつも「ない」を感じがちな心のクセ、欠乏感も、
関連してるんでしょうけれど、
そうではないというのなら、
やった分だけなんらかの「利」、
しかもわかりやすいものが欲しいと思うのも、
自然な反応であり健全な証。
だからもしそんな風に思う自分をみつけたからといって、
自分を責める必要もないんじゃないかなと。
私…人間ができてないのかしらとか、
私…なんて小さい人間なのかしらなんて、
そんなこと思う必要もないですからね。
そう思う自分がいるというのもまぁありだと、
そこはもう肯定的にうけとめていいと思うんです。
それよりも、
この際ちょっと「違う視点」を取り入れてみると、
バランスがとれるかもしれません。
その努力は適切?適量?
違う視点とは、
あなたが何らかのことをやってあげたその相手、
もしくは、
自分がせっせとやった時に放ったその熱量、
それがちょっとした、
「勘違い」を含んではいないかという視点。
私はこんなに○○したのに、
または、
私はこんなに○○やってあげたのに、
おそらくこの言葉になる時って、
自分のなかでは正しいことをやっているという、
そういう認識だと思うんです。
正しいことをやったにもかかわらず、
それに見合う正当なものがかえってこない、
そうとらえるから、
なんだあいつ!とかどうして?!といった、
批判非難につながると思うんですが、
そういう現実が起こったときほど、
そういう感情が自分の中を占めるときほど、
見極める時がきているのかもしれません。
自分のその正しいと思った行為は、
ほんとに相手にとって「適切」なものだったのかと。
適切かつ適量だったのか、
ようは過ぎてないかってことですよね。
やりすぎているからこそ見返りを求めすぎる
そこで大切になるのは、
自分の放つ熱量の認識、
そして、
自分はやりすぎていないかどうかの見極めです。
どうして実現しないと嘆くより、
なぜ努力が報われないと怒るより、
そもそもその求めている「みかえり」は、
大きすぎやしませんか?ということですね。
あなたが一生懸命に尽くしたそのお相手、
自分がやったそのみかえりをお相手にただただ求めるよりも、
そもそもお相手はそのあなたの熱量に添うたものを、
返すことができる存在なのか。
そして、
あなたにとってその「場」は、
自分の熱量を放つに値する、熱量に見合った場所なのか。
そこに目を向ける必要があると思うんです。
まとめ
自分の成長度合いやキャパシティーは、
人のことはわかれども、
自分の事ってあんまりわからないものです。
日々人間的な成長を重ねていった時、
その成長に見合うだけの熱量の放出をしてしまうと、
お相手はどうにも太刀打ちできなくなる、
または、
その成長ぶりに見合うだけのものが、
そもそも返せない場所にあなたがいる、
そういうことも実際にはあるんです。
あなたが何かと手を貸したそのお相手は、
そもそなにも返せない状態にいまあるのかもしれない。
あなたは知らない間に成長を重ねていて、
でもその自覚もないまま今まで同様に、
エネルギーを放ってしまっていたら、
あなたは思っている以上にいま、
「やりすぎている」のかもしれません。
そこに気づかず、
お相手に自分の放った熱量と同じものを返せと求めても、
酷かもしれませんよね。
相手にしてみたら、
とんでもないものを要求されてるんですから。
相手にしてみたらかなりの負担になっていて、
もしかしたら、
ありがたく迷惑なくらいに思っているかもしれない。
でも気づかぬは本人のみ なんてこともあるでしょう。
そんなつもりはなくとも、
思っている以上の愛情表現になってしまっていた、
そこに気づいてなかったのかもしれません。
需要と供給のアンバランスさがうまれ、
おかしなかんじになっていた、
そういうことだってあるかもしれませんから。
お相手に○○してくれないと不満を持つよりも、
どうして思い通りにならないんだと嘆くよりも、
まず自分自身の成長ぶり、
放つ熱量を自覚すること、
あなたにとって最適の場所をみつけること、
それは、
自分自身を正しく「評価する」「見極める」ということですね。
それによってはじめて、
思いが叶う実現する、
そんな現実が訪れるのかもしれません。
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